私たち、言語聴覚士の仕事のひとつに、
「食べること」
「飲み込むこと」
に関するリハビリテーションがあります。
難しい言葉で「摂食嚥下」(せっしょく えんげ)といいます。
誤嚥性肺炎(ごえんせいはいえん)
という言葉を、聞いたことがあるかもしれません。これは、食べ物や飲み物を飲み込んだ時に、食道ではなく、気管・肺の方へ食べ物が流れ込み、それがもとで肺炎になるという病気です。
通常、口の中には様々な細菌がたくさん住んでいます。(常在菌)
それに対し、気管より下は、基本的には無菌状態です。
無菌状態のところへ、食べ物といっしょに細菌が流れ込むことで、感染がおこり、気管支・肺に炎症が広がります。
この病気のやっかいなところは、
「誤嚥性肺炎」→「食べれない」→「体力が落ちる」→「もっと食べれない」
→「頑張って食べるけど失敗」→「肺炎悪化」
という負のスパイラルに陥りやすいところです。
食べること、飲み込むことは、時には窒息の危険も伴いますし甘くみることはできません。
この世に生を受けて、おっぱいやミルクで成長し、離乳食が始まって・・・。
食べる・飲むということは、人生における大きな喜びであり、また、単なる栄養摂取ということではなく、大切なコミュニケーションの一部とも言えるかもしれません。
ずっと食べていた食事が、うまく食べれなくなるということは、ご本人にとっても、ご家族にとっても、「食べれない」という事実以上に大きな問題であろうと思うのです。
「せめてほんの一口でも、口から何か食べさせてあげたい」
ご家族のことばを、いつも重く受け止めています。
時には、
「あの時、リハビリで食べさせてもらったゼリーが、最後の食事でした」
という場面にも出会うことがあります。
その方の永い人生における、最後の一口は、そのひとにとって、あるいはその家族にとって、どんな意味を持つのでしょうか。
「食べる・飲む」ことの難しさは、
それほど人生における大切な能力であるにも関わらず、なかなか目に見えないことにあります。
自分自身の食事の様子を、自分で注意してみたとしても、
見えるのはせいぜい口の中で、そこから先は、外からは見えません。
見えない作業を、どうチェックし、あるいはどうトレーニングしていくのか?
「〇〇しましょう」と提案したとして、
どこが、どうなっていくのかが、なかなかイメージしづらいことにあるのではないでしょうか。
また「食べる」ことが、当たり前すぎるということもあります。
当たり前ができなくなることに、落胆したり、あるいは認められなかったり。
だからこそ、単なる「機能」に目を向けたリハビリは、どこかちぐはぐな感じになってしまいます。
「食べる」を支えることは、「いのち」や「人生」に目を向けることでもあります。
やはり、コミュニケーションの仕事なのだなと感じるところですね。